Column 島田 晶夫さん
1997年8月、スウェーデン南東のウェーランドという島にある、カペラゴーデン手工芸学校での僕の留学生活は始まった。
カール・マルムステン(家具デザイナー・スウェーデン家具の父と呼ばれている)が1960年代半ばにスウェーデンの伝統工芸を守るために設立した学校で、木工工芸・インテリア科、テキスタイル科、陶芸科、そして園芸科の4つの学科があり、僕はこの木工工芸・インテリア科に入学したのだった。
そもそも中学生の頃から木工に興味があり、その先の進路も全て木工に携わってきた僕にとってカペラは夢のような存在だった。
いざ「行こう!」と決めてから入学に至るまでにはかなりの努力も必要であり、何とか50倍の競争率を突破し合格の国際電話を受けた時には涙があふれそうな程嬉しかった。
しかし、全てがバラ色で始まった訳ではなかった。スウェーデン語の授業はほとんどわからず、クラスメートや教官の英語でのフォローも元々英語が苦手な僕にはチンプンカンプン。孤独と不安な日々が続いたが、はじめは遠くで眺めていたクラスメートも制作の時間になると僕が持ってきた日本製の道具や技法に興味を示すようになり、僕自身も言葉は不自由ながらも心を開いてクラスメートと接する機会が増えていった。
特に皆がおもしろがったのは、鉋(かんな)と鋸(のこぎり)で、形が違うのはもちろんのこと、挽く事によって切る、削るという作業を行うのはかなりの驚きであったようだ。(向うは押すんです)その後日本に研修旅行に来た時にはこぞって鉋と鋸を買って帰っていた。僕もスウェーデンで色々な道具を試したけれども鉋と鋸はやはり日本製のものが一番しっくりしていたように思う。
生活のほとんどは寮で過ごした。1棟5~9人(男女・各専攻が入り交じって)での協同生活。それが何軒か集まったスタイルだったが、食事は学校の食堂で全員が摂るようになっていた。
スウェーデンに来てからまもなくして、体重が著しく減少した。最初のうちは緊張と慣れない食生活のせいだろうと気に留めていなかったが、その内ほぼ毎日お腹を下している事に気が付いた。なんと乳製品がすべて体に合わなかったのだ。何がダメだったのか未だにわからないし、他の日本人の知人は皆大丈夫そうであったので、僕が特に合わなかったのだろう。日本にいた頃には毎日ゴクゴク飲んでいた牛乳も一口飲んだだけでトイレに直行である。しかし酪農の国スウェーデンで乳製品を使わない食事はなかなか大変である。食堂のおばさんに頼みこみ、なんとか1人前だけ特別メニューを作ってもらえるようにした。ケーキですら僕の分は豆乳製である。(豆乳はポピュラーな食べ物でスウェーデンでも簡単に手に入れられる)また、よく通っていたピザ屋のおじさんですら、いつもチーズの入らない唯一のメニューであるケバブピザをオーダーすることを覚えてくれるようになり、何も言わなくても「はいよ。いつもの」と渡されるようになったりした。
カペラでの授業内容は非常に豊富で興味深い事が多かった。
国内の各分野で活躍している人達がゲストティーチャーとして招かれる事もあった。中には「ヴァイキングを実感する」という授業もあり、僕もあの角のついた鉄カブトに鉄のヨロイを付けて動き回ったことがある。重い。はっきり言って重いの一言である。
しかし、もちろんそんなことを学ぶためでなく、そういった物や事を実体験することにより、そこから生まれる発想を広げる授業なのである。
日本にはないこういった方法での授業は僕に多くのインパクトを与えることになり、生きた知識として身に付いていった。
3年の学校生活、1年の勤務を経験し、2001年の夏僕はスウェーデンから帰国した。4年という時間は僕の作る家具を大きく変えてくれたように思う。
日本人だからこそ理解のできる北欧のシンプルで温もりのあるデザイン。
これからもスウェーデンで学んだ事をベースとした家具作りを手掛けていきたいと思うこの頃である。
1971年北海道苫小牧市生まれ。
1995年国立高岡短期大学産業工芸学科木材工芸専攻(富山県)卒業後、(財)スウェーデン交流センター(当別町)木材工芸工房の研修員として在籍。 1997年スウェーデン・カペラゴーデン手工芸学校 家具&インテリア科に留学、2000年スウェーデン・OLBY DESIGN(株)入社。 2001年帰国しDESIGN STUDIO SHIMADA設立とともに(財)スウェーデン交流センター木材工芸工房主任研修員として活躍中。
展覧会として、2002年第15北の生活産業デザインコンペティション入選・個展ギャラリーたぴお(札幌)、2003年グループ展(三越倉敷支店)、2004年2人展コンチネンタルギャラリー(札幌)、暮らしの中の木の椅子展入選。