Column 島田 晶夫さん
最近本屋をのぞく度「北欧」を特集している雑貨や本の多さに驚くことがある。特に「雑貨」とか、「暮らし」にスポットを当てているものを見かけると、ついつい手にとって眺めているだけのはずが、結局、幾冊かの本をまとめて買うことになるのもしょっちゅうである。
僕自身、かなりの雑貨好きと言え、スウェーデンに滞在した4年間だけでも、一体ダンボール何箱分の雑貨を買ったかわからない。お酒が飲めないと言うのにアンティークのワイングラスやショットグラスなど何脚あることやら。
部屋の模様替えを兼ねて、飾ってある雑貨などを入れ替えようと久しぶりにこのダンボールたちを開けることにしたのだが、まぁまぁ、自分でも呆れるほど色々なものが新聞紙にくるまれたり、クッキーやらキャンディといった空き缶の中から次々と出てきて、思わず一つ一つを手にとっては懐かしさに浸ってしまった。中にはミリタリーショップ(軍の払い出し品の専門店)で買ったステンレス製の弁当箱やら、冬の制服でもあるウールのニット帽なども出てきた。このニット帽はかぶってみると大変に暖かく(まあ冬の演習でかぶるんだから当たり前だが)、折りしも今年の大雪で毎日雪かきに追われていた僕にとっては思わぬ見つけものとなったりした。
でも、どうしてこんなに遠い国の雑貨がブームのようになっているのか?色々研究している方々も多いと思うのだが、僕個人の感想としては、その暮らしぶりに共通するものが多いからではないだろうかと思う。
例えばこうした雑貨や一般的な生活に使われるもの達に共通して言えるのは、人の手の温もりが残る素朴さにあるかもしれない。木で作られたスプーンやバターナイフなど、工場で大量生産されるものと違い、一本一本人の手で作られたようなものは、実際非常に長持ちで、使っているうちに愛着や味わいといったものを感じられるようになる。ステンレス製のものなどいくらでもある時代なのに、それでも今なお、老若男女、木のバターナイフを愛用している人は多い。
また、毎日使う食器一つとっても、たとえそれが工場で生産されたものであってもなお、ぽってりとした質感や繊細なフォルムなど、どこか手になじみ、飽きのこないものが多いと思う。実際我が家でも、イッタラ社のティーマというシリーズの食器を普段使いにしているのだが、和・洋・中とどんな料理にも合う形、色であり、そしてちょっと厚めの素地で、ガンガン洗っても頑丈なのである。もう何十年と変わらないデザインと色の食器、これを売り続ける、そして買い続ける人がいると言うことこそ、華美なものではなく、良いものを使いたいという人の心を惹きつける原点かもしれない。
そもそも北欧の日用品が美しく機能的であるのは、1800年代終わりから1900年代初めにかけて起こった一種のデザイン運動の影響であると言われている。これは「普段使いの道具をより美しく」と言ったもので、それが国民全体の動きとなり、発展したことによって今日の北欧デザインに繋がってきたと言える。おもしろいのは、日本の民芸もそうであったように、使っている人が「より美しく」とモノ作りに参加し、その手によって作られた「美」である点だろう。
さらに、こうした生活に使う道具たちをいかに収納し、飾るのか、それが自分達に快適なのか、そんなことを真剣に考え楽しみつつ暮らしてきた結果、その家、その人なりの暮らしの場が出来ていったのだろうと思う。
スウェーデンにいた頃は色々な友人の部屋、知人の家など訪れる機会も多く、その家の家具やさりげないディスプレイに感動したり、興奮したりして、自分もそんな空間にいつか住んでみたいと切望したものだった。けれど、同じような雑貨を手に入れて使ったり、ディスプレイしてみてもどうしても同じようにならないのである。これは小さい頃からの経験がモノをいうのか、彼らは自分の家や部屋に何が合って、他のものとどう調和するのか、それを理解、納得して物を買い、空間を構成していくようなのである。
そして、もう一つ彼らの選択眼のすごさが、決して新しいものばかりではなく、古いもの、人が使った中古品からでも、自分だけの特別の一品を探し当てる能力があるところではないだろうか。
この中古品や古いモものたちを集めた店をスウェーデンではロッピスと言い、それこそ都会から田舎までいたるところに店があり、食器から家具まで何でも売っているおもしろい場所である。
日本語に訳すとリサイクルショップと言うことになるのだろうが、僕の見た限り多くの店では「ガラクタ市」と呼んだほうがしっくり合うほど、何から何までごちゃごちゃと置いてあるところが多かった。もちろんきちんと陳列しているお店もあるのだが、このどうにもごちゃごちゃしているところから思わぬ宝物が出るのではないかと、はやる心を抑えながら見て回るのがロッピスの醍醐味かもしれない。
どんなものがあるかというと、アンティークの食器類(100年以上前のグラスやデキャンタなど)、銀食器(ナイフ、フォークはもちろん蜀台やオードブル皿など、昔の貴族が使ったものまで多々ある)、アンティークのリネンやレース、ロイヤルコペンハーゲンやロールストランドなど、有名ブランド食器、しかもそのアンティーク。
そしてそういったものと一緒に、プラスチックのゴミ箱とか、古い家の鍵(錆びている)、柄の取れたナイフ(使えない)、つまみの取れたシュガーポット(ごみ?!)、よろよろになった馬車の車輪、何に使うのかわからない錆びたネジ多数、見るからに固まったペンキの缶、などなど、さわると手が汚くなるようなものも所狭しと売っている。
古いものに混じって、スーパーで今も普通に売っているような安い皿やらマグカップも、確かに一度使っているものなのだろうが平然と売っているし、例えば王室何とか記念なんていう盾も結構いろいろあるので、大きな店なら見ているだけであっという間に時間が経ってしまう。
けれど、ここは何も古いもの好きが集まると言うだけの場所ではなく、例えば祖母・祖父の代から使っている食器を一枚割ってしまい、それと同じものを一枚だけ探す、あるいは、100年、200年と住み続けた家を補修する時にやはり同じ時代のネジやレンガや窓枠の木を探すなど、これらを必要な人にとっては貴重な場所である。こういう店はこのように必要としている人が多いからこそ成り立っているようである。
大体があまり気を使わず売っている店が多いので、食器なども大抵はほこりにまみれていることが多いのだが、それでもお値打ち品と呼べるものは数多く売られている。けれど、スウェーデンの人たちは、それが良いものとわかっていても、決して自分のテイスト以外のものは買ったりしない。お皿も一枚必要なのであれば、一枚だけ買い足すというのが一般的である。要は持ちすぎないことの必要性を知っているということだろう。
ダンボール何箱分の僕には少々耳が痛い話ではあるが、今回久しぶりに自分の持っていた品々(ロッピスでの戦利品が多いのだが)を取り出して、こうして囲まれていると、やはりそれなりの愛着を持って買ったりしたものなので、とても気持ちが和み、平和な気分になれた気がした。そして、そんな気分もつかの間、また一つ一つ新聞紙に包んだりして段ボール箱に戻す作業に追われることになるのだが、「これもあれも、いつか使う日が来るよな…」などと、一人未来に夢を託しつつ、僕の雑貨集めはまだまだこれからも続きそうである。
1971年北海道苫小牧市生まれ。
1995年国立高岡短期大学産業工芸学科木材工芸専攻(富山県)卒業後、(財)スウェーデン交流センター(当別町)木材工芸工房の研修員として在籍。 1997年スウェーデン・カペラゴーデン手工芸学校 家具&インテリア科に留学、2000年スウェーデン・OLBY DESIGN(株)入社。 2001年帰国しDESIGN STUDIO SHIMADA設立とともに(財)スウェーデン交流センター木材工芸工房主任研修員として活躍中。
展覧会として、2002年第15北の生活産業デザインコンペティション入選・個展ギャラリーたぴお(札幌)、2003年グループ展(三越倉敷支店)、2004年2人展コンチネンタルギャラリー(札幌)、暮らしの中の木の椅子展入選。