Column 深井 せつ子さん
「Lilla torg」
2ヶ月間の北欧旅行のはじまりは、スウェーデン南部のスコーネ地方からでした。
その時、私は二人の幼児の手をひきリュックを背負って、夫の取材旅行にくっついて来たのでした。スウェーデンの古い友人に自分の家族を紹介したい、という夫の希望もありましたが。
マルメやイスタッドの古都とニルスの舞台を車で旅した後、スコーネ地方のオズビーという村に住む友人家族を訪ねました。森の中に散在する赤い木造民家の一つが彼らの住宅。古い農家を購入したとのこと。ちょうど同じ歳ごろの二人の子をもつスウェーデン人の若い家族は、友人である男性の方が休職中で子育てに専念、奥さんは教師として働いていました。どちらも屈託がない表情で、生活をエンジョイしているようでした。ことに友人である彼が料理・洗濯・掃除・育児・薪わりと、なんでもこざれで働く姿に私は心底おどろいたものです。また、それを実に軽々と楽しげにやってのける。そういえば、自分の夫もいざとなると家事雑務をなんでもこなすけれど、それは、この国で心得たものかもしれない。これは、いったいどういう国なのだろう。
子供を持つまでの私は、女性差別などほとんどない出版社でのびのびと生きてきました。出産退社などしてくれるなという回りの反対(当時はたいてい逆)に、意志は自分も同じだが熟考すると子育ては一大事業だと言い放って退社。しかし、それまでの生活とはあまりに落差があり、かなりまいっていました。ほとんど男性ばかりの社会にいた私には、公園デビューやティータイムなど、都会の家庭婦人の社交がいまひとつなじめなかったのです。子を持つ母親として努力をしつつも、違和感や疑問を強く感じていました。そして、いつのまにかそれは、絹のスカーフが首にからんで解けないような感覚さえ起こしていたのです。また、そういう自分はおかしいのではないのか、という不健康さにまで陥っていました。
この自信喪失しかけている私の子育て時代に、まさにタイムリーに「北欧社会」と出会ったといえるでしょう。なぜなら、その後北欧を知るほど、自分の疑問点は本当に疑問に思うべきことと言えたし、自分が希望する女性の生き方が目の前にごく自然に当たり前のようにあったからです。それまでの私の数年間のブルーが払拭されたのです。こんな風にすっきりと靄が晴れることもあるのか、生きているのは実におもしろい、とさえ感じたものです。
その後の2ヶ月の旅の先さきは、北欧の清潔な自然の美しさに感動の連続でした。それらはまた、私の心の中にある"失われた故郷の風景"でもありました。広い広い汚れのない砂浜、風の音が心地よい海辺の松林、質素な漁師の家、萱葺き屋根を持つ農家、潮風にぼんやりかすむ古い洋館、のんびりと散歩する老人と子供、風に乗る夕餉の匂い…。すでにもう消えてしまった自分の少女時代の光景と出会う旅でした。
気がつくと、私は画材を次々と買いこみ、スケッチを描き続ける旅となっていたのです。それは、17歳でいったん閉じてしまった「絵を描く自分」という部屋のドアが一気に開けはなたれたような感じでした。
スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドと北欧2ヶ月の旅を終え、予定どおり、コペンハーゲンから寝台特急列車でパリへ。明け方、車窓から大都市パリの輪郭が見えてきた時、「北欧へ帰りたい!」という気持ちが強く湧き上がってきました。この瞬間、自分にとって本当の北欧の旅が始まったんだ、ということを私ははっきりと感じました。
神奈川県出身。画家。
北欧各地の清涼な風景に強く惹かれ、北欧行を重ねている。個展や絵本をはじめとする著書も北欧をテーマとしたものが中心。近著に「デンマーク四季暦」(東京書籍)、「小さな姫の勇気の教え」(KKベストセラーズ)、「北欧ヒーリング紀行・森の贈り物」(大和出版)。スウェーデンハウス株式会社のカレンダーは、隔年で制作担当。日本北欧友の会会員、日本スウェーデン文学協会会員。
「Lilla torg」 水彩画家であり北欧エッセイストの深井せつ子さんが北欧の姿、エピソード、思いなど、目と心を通してその魅力を書き綴ります。旅行などでは気づくことのできない北欧が見えてきます。 ※「Lilla torg(リラ・トーリ)」はスウェーデン語で「小さな広場」の意。首都ストックホルム市から飛行機で1時間ほどにある南スウェーデン最大の都市マルメ市。この街の14世紀に作られた聖ペトリ教会の近くに中世の趣を残す木造の建造物がいくつか残されている広場が、この「Lilla torg(リラ・トーリ)」です。